サイトの立ち位置

00年代まで(1996〜2005年あたり)の「テキストサイト」に影響を受けてか、紹介した事柄の文末に「記者の言葉」的にコメントが添えられることが多く、今の個人系ニュースサイトにもその名残が見られる。

しかし、その部分が薄くなっている・求められなくなっているのは、TwitterやFacebookなどでコメントは受け手が書くことが習慣づき、サイト側も情報の集約と編集・発信に注力できるから記者のコメントの必要性がなくなった。

そのコメントこそが面白く売りになっているサイトもあるが、感情を発信することで「思考の強制」となってしまう場合もある。見出しの作り方一つでも受けての印象は変わるからだ。

さらに中には他サイトとの差別化(知識・意識の違いを明示)のために「〜だろう」「〜と思われる」と締めて、それが専門の分野の人から見て明らかに間違っている場合さえある。ここら辺は旧来の新聞社、特に日経新聞などにも見られるがせめて専門家の考察に止めておいて欲しいところだ。その記事の影響で幾度となくソーシャルメディアや電車内の会話で「〜らしい」で混乱してきている。誤っていることがわかると、そのニュースの中身の一次会社が「あそこが言うことは常に誤りだ」と言うことになったりする。株価の影響もゼロではないはずだ。

そのサイトが、「感情」を売りにするのか、「伝達」を売りにするのか、「噂さ」を売りにするのか、はっきりしない中で生まれてきた新世代にその情報のあり方を教えるのはより厄介になっていきそうだ。

そこを分類する「ラベル」みたいな機能があればいいのだが。今は意図して分けているはずの「Googleウェブ検索」と「Googleニュース」の検索結果にさえ、ノイズがいろいろと混じっている。

先だっては、発信する側がその意図を言うしかない。
ちなみにこの記事は考察でも批評でもニュースでもない、雑文だ。

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